かわや(旧よろずや)のブログ

好きな乃木坂、映画、漫画などについて語ります。

5期生楽曲『心にもないこと』再考、テレパンのこと

4月になりました。新学期の季節ですね。

そして、このブログを始めたのも去年の4月です。おかげさまで1年間、続きました。よく続いたと我ながら思います。

初投稿が忘れもしない、去年の4月29日。ゴールデンウィークのさなか、旅行に出ていたのですが、その折に宿泊先のホテルで書き上げて投稿した記事でした。

初めての投稿なので、すごくドキドキしていたのを覚えています。

まあ、その辺の裏話は、この記事の最後の方でつらつらと書いているので、興味がある人は覗いてください。

 

『心にもないこと』再考

 

さて、本題です。

初投稿の記事のテーマは5期生楽曲『心にもないこと』でした。

yorozu831.hatenadiary.jp

あれから一年経って、今の自分にはどう見えるのか試したくなり、一年間でどういう変化があるのか確認したいと思います。

それで,、久しぶりに『心にもないこと』のMVを見たのですが、やっぱ一年前と違って見えますね。

改めて見直すと、表のテーマは「卒業、新たな門出」というところだと思います。この辺はだいたい一本道ではないかと。問題は後で触れる裏テーマ(?)ではないかと思います。

www.youtube.com

 

改めて見直して思うのは、一年前と同じ感想を抱く部分もあるのですが、スルーしている部分が多いということです。このMV、個人的にはそんなに仕掛けは多くなくて、さほどカロリーを消費しなくても、分かる部分が多いように思います。

たとえば、『Monopoly』だと、ぱっと見だけではカッキーとサクちゃんが悪そうだ、くらいにしか見えませんが、あちこちに仕掛けがあって、深読みできる要素がいろいろあるように思います。

 

『心にもないこと』のMVで引っかかるのは、おそらく、なんで彼女たちがパントマイムみたいなことをやっているのか、ということだと思います。

 

というわけで、表のテーマと思しきものはサクッと説明して、裏テーマと思しきものの考察もどき、それからこの曲でセンターを務めた池田瑛紗さん(以降、彼女の愛称「テレパン」と表記)について思っていることを中心に書いていきます。

 

2023年3月17日付のテレパンのブログに、この曲のポイントが書かれています。

当時のテレパンのブログを引用します。

制服を脱いで、今までの5期生の曲とひと味違う?そんなMVになっております ひとりひとりにフォーカスが当たる素敵な作品です

是非ご覧ください\( ¨̮ ( ¨̮ ( ¨̮ )/✨

~中略~

今回池田はアンドロイドだ!!!と言われ、アンドロイドになったつもりで撮影に臨んでみました🤖


近未来的なセットと衣装も相まって、新しい5期生のみんなの魅力が伝わっていたらいいなと思います(*^^*)

上の引用(特にハイライトした部分)が、このMVのコンセプトを端的に表しているように思います。

 

MVを見て最初に目につくのが、家の中にいるのに、やたらと服がかしこまっているところです。

デートスタイルではなく、どちらかと言うと、これから会社のお偉いさんと会いに行くとか、パーティーに行くとか、親が子供の入学式や卒業式に出席するとか、そういう感じの格好していますね。

一年前の自分はそのことをスルーしていますね。いや、めちゃめちゃ目立ちますし、不自然だからスルーしちゃいかんです。

では、なぜそんなに、かしこまった格好をしているのかと言うと、おそらく彼女たちの卒業セレモニーのためなんだと思います。

5期生楽曲の全体の流れから見ても、29枚目シングル収録の初の5期生楽曲『絶望の一秒前』から始まった一連の5期生成長物語も、この『心にもないこと』で終幕を迎えることになります。

 

この服装に関するヒントは、テレパンのブログにあった「今回が制服なし」というところだと思います。

今までの学校通いの生活から、いよいよ巣立ちのときが来たってことですね。それで、かしこまった服を着ているということなんでしょう。後で触れていますが、MVの最後のところで、いよいよ巣立ちという場面が出てきます。

それで、彼女たちのいる場所は、彼女たちにとってアイドル養成所なんだと思います。

この曲の発表時期は、世間的に卒業シーズンと重なります。そして、5期生が選抜組とアンダー組と分かれるタイミングでもあります。そういう時期的なものも込みなんでしょうね、きっと。この辺のことについては、一年前の記事でも言及しています。

 

ここでもう一つポイントがあります。

さっき引用したテレパンのブログから、彼女の役回りがアンドロイドということになっていますね。

アンドロイドなので起き方がすごく機械的です。目を覚ましてすぐにぱっと起きます。なるほどアンドロイドです。

そして、表情もあまりありません。なるほどアンドロイドです。

でも、起きた後、あくびをして、のびをしています。アンドロイドがやりますかね。いや、そもそもアンドロイドなのになんで寝ているんだ、というところに不自然さがあります。

近未来設定なので、アンドロイドがいるということはわかります。

自分の中では、この一連の流れを簡単に片づけています。多分、テレパンはポンコツアンドロイドなんだろうな、と。

理由は簡単です。他のメンバーがとっくに起きているのに、一番遅くに起きているし、それにおそらく、人間のアイドルからコピーすべき所作を間違えて、アクビをするところとか、のびをするところとかをコピーしてしまっています。まあ、愛嬌があると言えばありますけど。

 

もう一つ大きなポイントがありますね。

彼女たちのいる空間の土台になっているガラス板です。これ、5期生楽曲『バンドエイド剥がすような別れ方』に出てきたガラス板と同じですね(物理的に同一なのかどうかは知りませんが)。

このガラス板の解釈については、一年前の記事とあまり変わりません。

このガラス板は、いわば「乃木坂研修生」として一年間、一緒に過ごしながら切磋琢磨する「地盤」のようなものだと思います。

『バンドエイド...』のときは、ただの地盤でしたが、そこにフレームが足され、家のようになっています。アイドルとして研鑽を積むための学校みたいなところなんでしょう。

この辺もあまり解釈に開きが出ない、どちらかというと一本道かなあ、と個人的に思います。

 

あと、面白いと思うのは、ときどき紫色のもやっとしたものが下から浮き上がります。

 

 

みーきゅんの後ろに紫色のもやがかかっていますが、これ、MVのあちこちに出てきます。

このもやっとしたものが、一人前の乃木坂になりかかっているという彼女たちのステータスを表しているんでしょうかね。

ステージ衣装が真っ白なのも彼女たちのステータスを表わしているように見えます。まだ何色にも染まっていないっていう。

 

ここまでは、さほどカロリーを消費しなくても消化できていると個人的に思っています。もちろん当たっているかどうかは定かではありませんが。

 

このMVの中で一番分かりにくいのは、メンバーがパントマイムのように「ピアノを弾くふり」、「お茶を飲むふり」などの「ふり」をしている、というところです。

これについては、自分の中では統一した見解ができていません。そのときどきでいろいろな説が出てくるのですが、今のところ一番有力な説は、アイドルの虚構性を表わしているのではないか、という説です。

深読みし過ぎているきらいはありますね。

「虚構性」なんてやたらと大上段に構えちゃってますが、こういうテーマ、自分には分相応でない気が大いにしますwww。

 

自分なりに「アイドルってこういうものなのかな」という仮説を立てています。

まだ仮説として体系だったレベルにまでは至っていないのですが、今時点では、アイドルって(かなり大袈裟な表現になりますが)一億人の日本国民を巻き込んだ壮大な「ごっこ」なんじゃないかと考えています。

アイドルをすごく冷めた目で見ると、そこそこ可愛い子が、そこそこのレベルで歌を唄って踊っている、みたいに見えるんだと思います。実際、自分も乃木坂に興味を持つまでは、そういう見方をしていました。

彼女たちを「アイドル」として見る、あるいは受け入れるという通過儀礼をくぐり抜けると、彼女たちの容姿も歌も演技も賞賛に値するものに見える、あるいはそう思い込む、ということになります。つまり演じる側も見る側も「ごっこ」をしているんじゃないか、ということです。

なんかディスっているような書き方しているように取られるかもしませんが、そういう気はありません。

一種のお祭りみたいなものだと考えてもらうといいと思います。

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃな損損」なんていうのと同じノリです。

アイドルっていう神輿をみんなで担いで「わっしょい、わっしょい」している、というようなイメージです。自分はあまり乃木坂に投資できていないので、神輿を担いでいるというよりは、神輿の後ろにくっ付いて歩いている人くらいの立ち位置なんだと思っています。

頭の中でうまく整理できていないので、ちゃんと説明できている気がしないのですが、なんとなく言わんとしていることは伝わったら嬉しいです。

 

そういう虚構性をMVの中で表現しているっていう見方です。

自分で言うのもなんですが、おそらく外れているでしょう。

単純に、「これは疑似的(概念的)なお家ですからね。お家の中の人もフリをしてます」というふうに見る方が自然かもしれません。

まあ、いいです。

 

一年前の記事では、このガラス板の上にできている疑似的なお家は5期生にとっての「ホーム」、つまり帰ってくる場所、なんて書いていますが、多分、違いますね。

このお家、すでに撤去モードに入っている感じがします。完全撤去なのか、次の期生に使いまわされるのか知りませんが、下の図は撤収モードに入っているように見えます。

 

 

 

まあ、帰ってくる場所ではなくなると思います。しいて言えば、途中のセピアカラーの写真=メモリーが彼女たちの「ふるさと」みたいな位置付けになるんだと思います。

 

MVの最後の方で「花を持つフリ」でなく、本当の花を持っていますね。まさに花を持たせるってことでしょうか。それで皆が巣立った後に、花が一つの花瓶に収まるっていう、なんとも思い入れたっぷりの演出だと思います。

 

まあ、ほじくり返せば他にもいろいろと出てくるのかもしれませんが、このMVを深掘りしてあれこれ書くのはなんか違う気がします。といってもMVが浅いって言っているわけではありません。あれこれ謎解きするようなタイプではないな、と感じているということです。

 

そんなこんなで、大筋で見ると、一年前とだいぶ見方が変わっています。

気づいている点も多くなったように思います。

ここに書いた以外にも気づいた点はあるのですが、細かいことを書き出すとキリがないので、些末な点は割愛して、全体にインパクトがありそうな大きな点をピックアップしたつもりです。

多少は見方が深くなったということなんでしょうかね。もしそうだとしたら嬉しい限りです。

 

テレパンについて思うこと

 

ついでなんで、テレパンについて思っていることを書きたいと思います。

別の記事で書いたことかありますが、自分の中では5期生の中で一番美人=テレパンです。目鼻立ちが超絶的に美しいです。

そのうえ芸大生です。絵がうまいだけでなく、頭も相当いいってことですね。

そして変人です。自分の知り合いにも絵描きさん、絵描きの卵さんがいますが、まず例外なく変人です。

変人なんていう言い方はよくないかもしれません。まあ、表現を薄めるならば「変な人」というところでしょうか。あまり変わらない気もしますが。

なんでしょう、独特な感性の人が多いんです。ファッションセンスとか、日常的な言動がつかみどころないというか、なんというか。

めちゃめちゃ面白い人だとは思います。ただ、クセが強すぎて付いていけないときもあります。

 

簡単にまとめると、テレパン=美人+芸術家はだし+めちゃ頭いい+変な人、となります。

 

こういう人材って探そうとしてもなかなかいないんじゃないかと思います。

おそらく乃木坂の歴史の中でも、こういう人が入ってくることはそうそうないんじゃないかと。

こんな素材を放っておく手はない、その独特の感性を大いに活かしてもらいたい、と個人的には思います。

しかし、実際には、彼女を既成のアイドルの枠にぐいぐい押し込んでいるように自分には見えます。なんかテレパンが息苦しそうに見えます。

 

加入当時の所作は、斜視っぽく斜めに物を見たり、ドライアイで目を細めたり、ひきつったような笑いをしていたりと「ヤバそうなキャラ」という印象があるのですが、いまや正統派アイドルとして、ああいうクセは矯正されたように思います。

アイドルとしては正しいのかもしません。

でも、最近は陰キャも市民権を得ているように思います。陰キャの独特な感性に基づく物言いも、以前ほど引かれることもなく、むしろ面白がられているんじゃないかと。

彼女独特の視点や感性に基づく「ヤバい発言」も面白いんじゃないかなあと。むしろ、乃木坂の幅が広がっていいんじゃないかと思うんですけど、そういう需要ってあまりないんでしょうかね。

 

そういう陰キャ全開がアイドル的にご法度なのであれば、せめてテレパンには漫画(乃木坂の内部事情を面白おかしく描いてもらうとか)を書いてもらいたい、そう思います。

大学との両立で大変だと思いますが、ブログの回数を減らしてでも漫画を書いてくれたら嬉しいなと思います。

テレパンに漫画、アルノさんにエッセイを書いてもらい、月一で「月刊乃木坂」として500円くらいで発刊してくれたら絶対買いますけどね。

やらないかなあ。

 

ブログ投稿裏話

 

冒頭で書いたように、初投稿はドキドキものでした。

なにせ当時(と言っても今もあまり変わらない気がしますが)生半可なファンだったので、「黙っとけ、ボケェ」とか「わかったふうなこと抜かすな」とか、さんざんなコメントが付くかもと思って大変ドキドキしていたわけです。

しかし、実際にはそうはなりませんでした。

そりゃそうですね。ぽっと出のブログを見てくれる人なんて、そもそもほとんどいないわけですから。

一応、MVなり曲なりを自分なりの観点で切ってみようと始めたブログですが、最初の頃は何を書いていいのか暗中模索という状態でした。

多分、去年の7月に『バレッタ』のMVを見てさんざん考えたあたりから、少しずつ見方が変わってきた感じがします。それまでボウッとして気づかなかったものに気づくようになった気がします。

考える癖を付けると、それに合わせて脳の配線も変わってくるんじゃないかと思います。

スポーツをやっていると、だんだんそのスポーツに合った体型になっていくのと似ています。

 

こうやって考える癖を付けると、作者が忍ばせている(と思われる)テーマに気が付くという余禄が付いてくるように思います。

実際に例を出します。

『ターミネーター2』という映画がありますね。古い映画ですが、結構有名な映画なので観た方も多いと思います。

大筋は、未来はAIが意識を持つようになり、人間を敵と見なし徹底的に排除していくのですが、人間側に指導者が現れ、劣勢を挽回します。こりゃいかん、ということでAIは、過去に戻って指導者を亡き者にしてやろう、というお話です。簡単に言えば、不利な状況を挽回するための過去の改ざんです。

そこで、過去を改ざんをしようとするAI側と、変えられてなるものかと抵抗する人間側と決死の攻防が繰り広げられます。

ここで紹介するシーンは、そのAIの開発者に、AIの開発をやめるよう諭すシーンです。

 

 

左が未来の指導者の母親、右がAIの開発者。

このお母さんが開発者を説教します。こんな感じの説教です。「あんたたち何も考えないでしょ。自分のことクリエイティブなんて思っているでしょ。でもあんたたちが何を作ったの。でも、女の人は子供を産むのよ。それこそクリエイティブなことじゃなくて?」

そして、次の絵、左側が開発者夫婦、右側が未来の指導者(子供)、味方のロボット(シュワちゃん)です。

 

 

開発者はお母さんとシュワちゃん+未来の指導者(以降、シュワちゃんチーム)に挟まれて責められるわけです。お母さんは上から目線で理想を説き、シュワちゃんチームは、お母さんの説教を制止する形で話に割り込み、そういう理想はさておき、現実的に開発中のブツを壊さんといかんだろうと説きます。

それまでは何とも思わなかったのですが、改めて見て、「おや」っと思いました。

お母さんが理想を説く位置にいて物理的に一番高、見おろすポジション、それから、開発者夫婦よりも下の位置にシュワちゃんチームが並んでいるように見えます。おそらく開発者チームとシュワちゃんチームは座高で言えば、そんなに変わらないと思うんですが、真横から映すことなく、こういうアングルで撮ってあえて下に見えるようにしているのかな、と。

まあ、開発者夫婦とシュワちゃんチームとの高低差は微妙なところですね。でも、お母さんが見おろす位置にいる、というのは意味がありそうな気がしています。

つまり、意図的に、理想から現実に向けて物理的な位置も下がって見えるようにした、ということです。

まあ、当たっているかどうかはわかりません。

 

基本的に自分は、アメリカ人を能天気民族と捉える傾向があり(偏見ですね)、キャメロン監督(実際にはカナダ人)もその一派と勝手に考えていたのですが、いまはそういう感じがなくなりました。

 

キャメロン監督は、『2001年宇宙の旅』などの名作を撮ったスタンリー・キューブリック監督をたいそうリスペクトしていて、彼の作品にはキューブリック作品のオマージュがあちこちに出てきます。

改めて『ターミネーター2』を見たときに、『2001年宇宙の旅』に対する彼なりの回答なのかもしれないな、と考えるようになっています。

『2001年宇宙の旅』が、類人猿が利権のために殺し合う→戦争がテクノロジーの進歩を促す(実際、コンピューターの進化を促したのは戦争です)→最終的にそのテクノロジーの申し子とも言えるAIと争い人間が勝つ→「神」に進化する機会が与えられるという流れ、つまり人類は次のステップに進むために常に争わなければならないという図式を書いているのだとしたら、『ターミネーター2』は、そういう争いの連鎖を断ち切り、共存するという選択肢を提示しているのではないかと思うようになっています。

いや、人間と機械が単にどんちゃんする映画じゃなくて、意外に深いんじゃないかと。

こんなことを考えるようになったのも、乃木坂のブログを書くようになり、MVとかを真面目に見るようになってからです。

 

こうして自分なりに考えていることも、他人から見れば単なる妄想に過ぎないのかもしれませんが、こういう副次的な作用もあるのだから、ブログを続けていてつくづくよかったなとしみじみと思います。