古い話になります。
去年の10月にリリースされた櫻坂46の10枚目シングルのお話です。
表題曲の『I want tomorrow to come』、BUCKS楽曲の『僕は僕を好きになれない』、3期生楽曲『本質的なこと』のMVを見ていたく感銘を受けて、早速、記事にしようとしたのですが、仕事が超多忙になってしまい、年明けを迎え、ようやく記事にできました。
いや、何がすごいって、3本のMVが「生き方三パターン」とでもいうようなシリーズ物のMVに仕上がっているように見えることです。
表題曲は最終的に他者に自分を投げかけることに救いを求め、BUCKS曲は救いのない世界に陥ってしまい、3期生楽曲は自身を肯定することに救いを見出す、という3パターンを描いているように見えます。
そして、その背景にはびんびんに哲学が入っているように見えます。
その辺について、妄想全開でお届けしたいと思います。
そういう哲学的要素が入っているかどうかはともかくとしても、MVのクオリティーがめちゃめちゃ高いと思います。ここ最近の坂道グループのMVの中でも出色の出来栄えではないかと思います。
おそらく、海外のマーケットも意識した「鼻息の荒い」MVなんでしょう。
それにしても、櫻坂46の勢いはすごいですね。いまや飛ぶ鳥を落とす勢いです。
いま、YouTubeの再生回数やオリコンチャートなどのデータを記録しているのですが、やっぱり櫻坂46は強い印象です。
データが溜まってきたら、いずれ分析して何らかの形で出すつもりです。
表題曲「I want to come tomorrow」
曲が三パートに別れていて、そのダイナミックな構成もあって、大きな話題を呼びましたね。
曲のパートを箇条書きにすると、こんな感じになると思います。
- 第一部。闇を怖れる自分。闇に飲み込まれて自身が消失するような感覚。スローなバラード調。
- 第二部。恐怖から何とかして逃れようと葛藤する。ノリノリのロック調。
- 第三部。最終的に、自己を他者に投げ出すことに救いを見出そうとする。スローで切ない曲調。
大雑把に言うと、こういう流れになっていると思うのですが、突き詰めると、これ以上のことは言っていないようにも見えます。
ですから、「結局、自分の不安を解消してくれるものは、最終的に他人なんだよ」というところで終わりにしても何の問題もないのですが、個人的には「闇」というワードが引っ掛かります。
深読みしすぎかもしれませんが、そこをどう捉えるかでMVの見え方が変わってくると思います。
このMVを見ると、「闇」を恐れ「光」を希求する、というストーリーが見えてきます。
MVの中で一生懸命、メンバーが「光」を集めていますね。
さて、話をがらっと変えます。
「光」と「闇」のような対立する概念で世界が成立しているという見方を二元論と言います。
こういう概念としては、「善」と「悪」、「天」と「地」、「戦争」と「平和」、「明」と「暗」、それから「月」と「すっぽん」(?)など、いろいろあります。
挙げだしたらキリがありません。
そりゃそうです。とにかく人間は世界を、対立する概念でくくるのが大好きな生き物ですから、もう世界中、対立する概念がうじゃうじゃしています。
では、なんで人間は二元論大好きっ子なんでしょうか。
おそらく、世界をそうやってくくった方が生きやすいからでしょう。裏を返せば、そういう風にくくらないと世界とどう向き合っていいのかわからない、ということにもなります。
二元論などの世界観でくくらない状態を「ヌミノーゼ」と言います。この言葉を知ったのはユング心理学の書物です。
もともとは、神学で使われている言葉で「聖なるもの」を表す言葉です。
しかし、ユング心理学の文脈では未分化の状態を表します。人間が「あれは善」、「あれは悪」とように色分けしていない状態を指します。
こういう、何のくくりもない世界は、人間にとって不安を呼び起こします。それが自分にとってどういう意味があるのかわからないからです。
なんだかわからない状態を忌み嫌う人間は、とにかく世界を定義したくてしょうがないわけです。
そういうときの便利な道具が二元論だったというわけです。
「言葉」も世界を定義するための道具という点では同じようなものだと思います。
人が闇を恐れるのは、そこに何があるのか(いるのか)わからないからです。
なんだかわからない世界を恐れる人間は、闇を打ち消すために光を出す装置を作り出しました。
そういう意味では、人間が作り出した文明は、恐怖から逃れようとしてできたもの、と言っても言い過ぎではないように思います。
もし、人間がそういう風にしか物事を認識できないのだとしたら、決してありのままの世界にたどり着くことができない、ということになります。
「じゃ、いっそのこと色眼鏡を外しちゃいなさい」と仰ったのが現象学のフッサール先生で、判断停止という概念です。それが何を意味するのか考えるのやめて、そのもの自体を見ようぜえ、と仰ったわけです。
そして、この考えを推し進めたのが、サルトル先生とかで有名な実存主義です。哲学に興味ない人でも、名前くらいは聞いたことがあるのではないかと思います。
ここで抑えておきたいポイントは、人間は何かと自分の都合のよいように物事を決めつけたがる、ということです。
すごーく身近な話に置き換えると、たとえば、自分のお友達を「あの人は陽キャだから」と決めつけるのと似たような話です。
当の本人は決めつける気はないものの、いつの間にか決めつけていることってありませんか?
「陽キャ」と決めつけた方が何かと自分にとって都合がよいからそうなったのかもしれません。しかし、実際にはその人はものすごく繊細な人で、そうやって明るくふるまうのも自分の柔らかい部分をさらけ出したくないからなのかもしれません。
そうして「陽キャ」=「何を言っても明るく対応してくれる」という勝手に作った図式で付き合っていくうちに、知らず知らずのうちにその人を深く傷付けているかもしれません。
このMVを初めて見たとき、出だしの「闇が怖くて眠れない僕」はきわめて個人的な話なのに、妙に世界の本質をついているなあ、と思いました。
第二部の狂騒的なパートも、そういう恐怖が源泉となって「ひっちゃかめっちゃか」になっているように見えます。
第二部では人間だけでなく、ピアノも踊り狂っていますね。ピアノは基本的にはエレガントな部分を担当することが多いのに、櫻坂46ではときどき「狂い出し」ます。
6枚目シングルの表題曲『Start over!』でも、本来であればエレガント担当のはずのピアノとストリングが狂い出します。こんな無茶苦茶なアレンジは滅多にお目(お耳)にかかれないと思います。かなり過激なことをやっていると思うのですが、その辺も海外受けする要因のように思います。
個人的に、こういう過激な路線、大好物です。
しかし、さんざん踊り狂ったところで出口が見つかるわけでもないし、だんだん疲れちゃいますね。
そして最終的には自分じゃどうにもならない、と思考停止し、他人の存在を希求するようになります。
これもまた妙に世界の本質をついているように思います。
さっきも書いたように、人間は二元論大好きっ子なわけです。しかし、本当のところは、二元論でなくてもいいのです。とにかく世界を「定義」できれば、道具はなんでもいいのです。
しかし、それは所詮、世界を生きやすくするための方便でしかなく、自分でそれが正しいなんてことは証明できません。
昔、岸田秀という心理学者の「唯幻論」(唯物論や唯心論をもじった言葉)という本を読んだことがありますが、結局、世界は自分が定義した幻でしかない、というような主旨だったと思います。
こうやって書いているとなんだか救いのない鬱っぽい話になってしまいますね。
では、こういう鬱っぽい話を決着させるにはどうすればいいか。
他人に頼ることです。
人が他人の存在を求めるのは寂しいから、ということになります。
では、その寂しさはどこから来るのでしょうか。
物事はそれ自体では規定することはできません。よく知られているパラドックスに「私は嘘つきである」というものがあります。
「私は嘘つきである」ということは、「私は嘘つき」であることも嘘になります。しかし、そうすると「私は嘘をつかない」ということになり、「私は嘘つきである」という話と矛盾します。
こうなると堂々巡りになり、何が正しいんだかわからなくなってしまいます。
結局のところ、このパラドックスが生まれる理由は「自分が自分自身を規定する」ことに無理があるからです。
難しく考えなくても直感的にわかる話ではないと思います。あるものをそれ自体で規定することがナンセンス、ということは難しい理屈を担ぎ出さなくても、なんとなくわかりますね。
つまり、自分で自分を規定するということが無理なのであれば、自分自身を規定するためには、かならず自分以外のものが必要になります。自己の正当性を自身で証明できないのであれば、それを自分以外の存在に示してもらう以外に方法はないわけです。
人が他人を希求する理由はそこにあるのではないか、という気がしています。
MVに話を戻します。
各メンバーが集めた電球は、無造作に積み上げられています。自分から見ると人間が作り出した文明のメタファーに見えます。
そして、最後に瞳月さん、砂を救うようなしぐさをします。そして、それは手から零れ落ちてしまいます。希望のはかなさを示しているように思います。
きわめて個人的な話を扱っているのに、こういう見方をすると別の切なさが襲ってきます。
実は大変ふかーいMVなのではないかと個人的には思っています。
BUCKS曲『僕は僕を好きになれない』
言わずとしれた、櫻坂のダンスマシーン、村井優さんセンターのBUCKS曲です。
村井優さんが選抜入りしなかったのは、ちょっとびっくりしましたが、MVを見て考えが変わりました。
勝手な想像ですが、10枚目シングルの構想は、表題曲センターを山下瞳月さん、BUCKSセンターを村井優さんありきの企画で始まったんじゃないでしょうか。コンセプト上、対比関係にある両曲に櫻坂の3期生の)二大ダンスマシーンを振り分けたという気がします。
表題曲とBUCKS曲はワンセットになっているように思います。
どちらのMVも、主人公が眠っている状態から始まります。
表題曲は救いを希求する話だったのに対して、BUCKS曲は自分を見失い終わりのないループにとらわれてしまった話に見えます。
どちらも最終的な救済にはたどり着いていないわけですが、前者には希望が、後者には絶望がセットされます。
後で説明しますが、3期生楽曲『本質的なこと』は、この二曲のアンサーソング、自分を肯定し、繰り返すことを受け容れる話、つまり一応の解決をみた話になっているように思います。
さて、『僕は僕を好きになれない』です。
この曲のタイトルは、乃木坂46の『僕は僕を好きになる』を連想させます。
個人的にはつながりがあるようには見えませんし、仮にあったとしても、10枚目シングルの収録曲という文脈で語るうえであまり意味がないのではないかと思っています。
このМVのモチーフは「胡蝶の夢」みたいですね。
「胡蝶の夢」とは、眠っていたときに蝶になってひらひら飛んでいた夢を見たあと、目を覚ましたときに、夢から覚めて自分が蝶になっていた夢を見ていたのか、それともまだ自分は夢から覚めておらず、今の自分はその蝶が見ている夢なのか、どちらだかわからなくなったという話です。
自分たちは確かに現実の中にいるつもりだが、実は誰かの夢の中の存在に過ぎないのではないかという現実の不確かさを表す有名な話です。
興味がある人は、WikiPediaとかの解説を見てください。
誰しも、ふと現実感を喪失することがあると思います。「あれ、これって現実なんだっけ」と。
表題曲の説明で書いたとおり、私たち人間は世界を自分色に染めたがる生き物です。しかし、それは「なんだかよくわからない」状態から逃れようとして無理矢理そうしている、という風にも見ることができます。
つまり、私たちが見ている「現実」はそれ自体に何の正当性もなく、勝手に自分たちの都合のよいように塗りたくったものに過ぎず、たとえて言えば、薄氷の上に乗っているようなものだし、砂上の楼閣の上に腰かけているようなものなのでしょう。
胡蝶のエピソードの背景には、そういう気持ちの悪さ、居心地の悪さがあるのではないかと思います。
MVの冒頭で優ちゃん、蝶の体液を飲みます。そして胡蝶ワールドに入っていきます。
さんざん、撮影場所のホテルの中で暴れまくったあと、現実(?)に戻ってきますが、優ちゃん、眠ったままです。
もしかすると、優ちゃんは最初からずっと眠っていて、蝶の体液を飲むシーンも優ちゃんの夢の世界の話なのかもしれません。
だとすると、あのホテルの中のシーンは、体液を飲んで眠っている優ちゃんが見ている夢、という見方もできると思います。
まさに「夢の迷宮」とでもいうような世界ですね。
多層的な夢の世界の中で何が現実なのか、どこまでが夢なのかが迷子になってしまっています。
前述した「私は嘘つきである」の話と通ずる話、そういう見方もできるかもしれません。
このMVは、とにかく見ている人を気持ち悪くしてやれ、という悪意丸出しの映像です。
人の動きも化け物みたいで気持ち悪いですし、けばけばしい色合いも気持ち悪いですし、カメラワークもまるで船酔いしているみたいで気持ち悪いです。
そして、メンバーがぐるぐる同じところを回っています。おそらく自分という牢獄に囚われ、同じところをぐるぐる回っているんでしょう。
最後のシーンもメンバーが輪っか状に並び、出口のない閉じた円環を表しているように見えます。
自問自答するばかりで出口が見つからない。まるで煉獄の中に入って、苦しみ悶えている、そんな世界観を演出しているように見えます。
表題曲では他者という希望にすがろうとしましたが、この曲ではまったく希望はありません。
3期生楽曲『本質的なこと』
5枚目シングルから始まった3期生楽曲シリーズ、これで6曲目を迎えました。
自分の仮説が正しいとすると、3期生全員にセンター曲が割り振られるはずです。そして、この動きは、乃木坂46の5期生、日向坂46の4期生でも起きています。
この動きが坂道グループで最初に始まったのは、乃木坂46の5期生です。
5期生11人のうち、すでに9人までセンター曲が割り当てられています。残り2人まできました。ここまで来たら全員行くよなあと思っていますが、どうなるんでしょうね。一応、一周したら期別楽曲はいったん終わると見ています。
もうすぐ乃木坂には6期生が入ってきます。おそらく6期生にも期別楽曲が毎シングルに割り当てられると思っているのですが、そうすると一時的に5期生楽曲と6期生楽曲がかぶることになり、秋元先生、大変なことになるかもしれません。
この動きの背景には、個人がもっとスポットライトを浴びるようにしたいという意図があるのではないかと考えています。
その辺は、別記事で取り上げています。
センターは3期生の遠藤理子さん、通称、エンリコちゃんです。
前の二曲が悲壮的な感じがするのに対して、この曲はメローで暖かい感じがします。エンリコちゃんの柔らかい声といい具合いにマッチしていると思います。
3期生さん、メイドの役ですね。
指に包帯を巻いています。何でしょう、現実の穢れみたいなのを表しているんでしょうか。
本曲でセンターを務めるエンリコちゃんの役どころは、メイドさんたちのリーダーみたいですね。
彼女、帽子(?)みたいなの被ってるんですが、これなんていうんですかね。この帽子みたいなものが、彼女が負っている責任(あるいは自分が自分に課している重り)のようなのですが、途中で脱ぎ捨てます。
冒頭から鬱々とした日常シーンが続きます。
エンリコちゃん、おそらく自画像を描いていたのでしょうか、気に入らなくて顔の部分を塗りつぶしています。自身を否定的に見ていることがわかります。
そして、こんなの私じゃない、とばかりにエンリコちゃん豪華バージョンに移行します。
下のスクリーンショットは、豪華バージョンのエンリコちゃんがメイドバージョンのエンリコちゃんを突き飛ばしているところです。
ここでひとしきり豪華バージョンで踊ったあと、やっぱりこれも違うな、とエンリコちゃん、はたと我に返ります。
また、メイドモードに戻るのですが、頭の被り物を脱ぎ捨てたあと、あの窮屈そうなメイド服で踊り始めます。
今の自分を否定してもしょうがない、そう決意したように見えます。
ラストでまた冒頭と同じシーンになります。冒頭のシーンではエンリコちゃんは後ろ向きのままですが、ラストシーンではカメラの方を向きます。そのときの表情が少し笑みを浮かべていて、吹っ切れたような、少し挑戦的な、そんな表情を浮かべています。
このМVを初めて見たとき、もしかするとニーチェという哲学者が提唱した永劫回帰なのかな、と思いました。
以前、ニーチェが書いた本とか、ニーチェ哲学の解説本とかを読んだのですが、自分の頭ではよく理解できず、なんとなくの理解なのですが、永劫回帰とは、自身を肯定して繰り返しの中に身を投じる、ということなのかな、と思っています(間違っていたらごめんなさい)。
ここでは繰り返すということにネガティブなイメージはありません。
おそらく自分自身、現実を肯定するということが鍵になっているのだと思います。
「受け容れる」ということは、まず出発点に立つことなのだと思います。
先の説明の中で、人間は二元論大好きっ子で世界を色分けしたがるから、世界そのものの姿(人間色に染まっていない世界)には決して到達できない、ということを書きました。
しかし、だからといって「どうせ、自分たちは真実にたどり着けない」というネガティブな考え方を説いているわけではないんです。
そういう風な傾向があると自覚することが重要なのだと思います。そこを出発点にして、自分は思い込んでないか、と自問することに意味があるのだと思います。
もっともそれ以前に、ここで言う真実とは何なのか、という高尚な話もあるのですが、それは置いておきます。
当たっているかどうかは別として、こんな風に「すごーい、哲学してるー」という見方もできるわけです。つまり、それだけMVにいろいろと考えさせる要素が詰まっているということなんでしょう。
以上、妄想全開で、櫻坂46の10枚目シングルの収録曲のあれこれをお届けしました。