3月以降、乃木坂46と櫻坂46に関連した記事は、noteに投稿しています。
note.com今後、はてなブログに投稿した記事をnoteに移してしまい、はてなブログを廃止するのか、あるいは、はてなブログを残すのか明確な方針はないのですが、とりあえず、乃木坂46と櫻坂46に関連する記事は、はてなブログには投稿せずに、noteに投稿しています。
たとえば、6期生に関する記事や、38枚目シングルの感想などの記事をすでにnoteに投稿しています。
ご興味のある方はぜひnoteの方へお越しくださいませ。
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4月30日に訪問。

食べたメニューはラーメン。

替玉はこちら。そこそこ量がありました。これを4個。5個いけると思ったけど、4個で撃沈。

ラーメンの写真
油堂


はやし田


貝ガラ屋


せんだい@横浜

麵屋つづき・野菜マシマシ
YouTubeで6期生のティザーが2月5日に公開され、2月6日からは春組のメンバーが一人ずつ登場しました。
6期生について今までわからなかったことが多かったのですが、少しずつ様子が見えてきたので、この機会に「6期生は多分こうなるよ」と記事に書いてきた内容を振り返りつつ、抑えておいた方がポイントをピックアップしてみたいと思います。
たとえば、運営はもはや数合わせに走るのをやめて採用人数を多くしなかったとか、春組と夏組ってそもそもなんじゃらほいとか、6期生紹介のトップバッターに矢田さんを持ってきた理由とか、そんな感じのことをポイントとしてピックアップしたい思います。
6期生については、「ああなりそうだ、こうなりそうだ」とあちこちの記事でさんざん書き散らしてきたので、その当たり外れの検証を「反省会」と称して記事にするつもりです。それは機会を改めまして、6期生の紹介がひと段落してからにします。
ちなみに、今まで自分が6期生について書いてきた点の中で最大のポイントは、「5期生以降、乃木坂46はブランド化する」ということです。
6期生春組の紹介動画を一通り見た限りでは、全体的な方向性として合っているかなあ、と感じています。
6期生の紹介動画を見た感想をXで追っていたのですが、「完成されている」系の感想を持った人が多かったと思います。
それと5期生と比べると残念という声もちらほらあったようです。
ブランド化の話に戻りますと、ブランド化という言い方が正しいのか自信がないのですが、要は乃木坂46が高級ブランド化する、という意味です。学校に譬えるとエリート校から超エリート校になる、というニュアンスです。選び抜かれたハイスペックな子たちの集団ということですね。
「ここらで原点回帰じゃ」と路線変更しない限り、かつてのような磨けば光る系の原石感のある子が選ばれることはないのではないかと思います。いわゆる最初から「完成された子」を今後も採用していくのではないかと思います。
5期生からそういう路線に舵を切ったように見えたので、まあ今後もその路線は継承されるのだろうなあ、という当たり前の発想です。そんな風に思っている人も多いのではないかなと思っています。
そして、今後入ってくる期生には、かつてのような試練は課されないのではないかと思っています。
1期生から4期生までは、加入してすぐにプリンシパルという試練が課されましたが、そういう試練が与えられることはまずないんじゃないかと思います。
スーパーエリートだから、そういう泥臭いことはしない、ということなんでしょう。
ハイスペックと言うからには、ビジュアルだけでなく、パフォーマンスのレベルも高いのではないかと思っています。全員が全員、そうだとは思わないですが、5期生並みに歌のうまい子とかいるのではないかと。
まだ、この辺は未知の領域ですが、5期生のパフォーマンス力が高かったのに6期生になってガクッと落ちた、となるとさすがに調子悪いと思います。
乃木坂の高いブランド力は、1期生から5期生まで長年かけて築き上げてきた血と汗と涙の結晶でしょう。
その中でも5期生以降で最高の功労者を挙げるとすると、自分の頭の中にまず浮かぶのは池田瑛紗さんです。
もし乃木坂のブランド力アップを運営サイドが望んでいたとしたら、これ以上の素材はないでしょう。ビジュアルの高さ、学歴の高さはピカイチですから。その才女ぶりは、外番組でも存分に発揮されています。
彼女をフロントに押し出す意味もはっきりしています。「あの美人はなんだ、え、芸大の子なの」。
歌はあまり上手ではないと思いますが、それを差し引いてもお釣りがたくさんあり余るくらいの話だと思います。
話を変えてティザー映像の話をします。
ここでいうティザー映像とは2月5日に公開された「6期生全員出演、でも顔写らない」バージョンの動画です。
ディザー映像を観ていて「おやっ」と思った人も多いんじゃないかと思います。
実際に紹介される段になっても、「春組」、「夏組」という区分けが活きになっています。便宜上の区分けじゃなくて、正式な活動に際してもこの区分けが使われるということですね。
まず、目を引くのが春組と夏組のカラーが違うことです。

これ、ティザーのタイトルに使われている写真なのですが、春組と夏組で色合いが違っています。
まあ、これだけを見て何がわかるかというと、何もわからないのですが、しいて言えば、春組が教室の中、夏組が外ということです。
ティザー映像の中で春組と夏組がすれ違い、春組は学校の中に入り屋上を目指してまっしぐら、夏組は学校から遠ざかっていきます。何か意味がありそうな気がします。たとえば、春組は「インテリチーム」で夏組が「おバカチーム」(それはないか...)とか。
春組と夏組とでは方向性が違うよ、と言っているように見えるのですが、まあ正直わかりません。
自分も春組と夏組の区分けについて何回か過去に記事で触れてきましたが、書いている本人もわけがわからなくなって迷走しています。
あとで6期生としてガッチャンコするんだったら「春組」、「夏組」なんて言い方にせずに「第1回募集」「第2回募集」にするんじゃね、だから何らかの区別があるんだよと書いたかと思うと、別活動するわけもないだろうから「春組」「夏組」という区切りに意味はないんじゃね、みたいに揺れていて、どっちつかずになっています。
いまだにその意図をはかりかねているのですが、まあ今の段階では方向性が違うんだろうなあという、ぼんやりとした見方をしています。
いずれにしても、春に募集したから「春組」、夏に募集したから「夏組」というそのまんま、というかシンプル過ぎる括りではなさそうです。
たとえば、6期生の子が外番組に呼ばれたとしますね。
自己紹介するにあたって「6期生春組の〇〇です」とか「夏組の〇〇です」という言い方をしたとして、周りの人にとって春とか夏とかいう情報は何の意味もなさないでしょう。春に募集されたから春組、なんていう情報は「あ、そう」みたいにどーでもいい情報として処理されてしまうでしょう。
たとえば、MCの人がいてそれを聞いてもほとんど広げられないんじゃないかと思います。そういう対外的にあまり意味のない情報を出してもしょうがないのではないでしょうか。
これがたとえば「春組の子は全員女優志望」、「夏組の子は全員モデル志望」みたいに何らかの特性を表す情報であれば、外の人にとっても意味のある情報になります。
ですから、そういう意味のある括りなんだろうなあ、とは思っています。
それと気になるのは活動形態ですね。
別々に活動するのか、一緒に活動するのか、あるいは両方のハイブリッドなのか不明です。
正直わからないことだらけで、いまの時点では実のある話が書けません。答え合わせは6期生の本格的な活動が始まってから、ということなんでしょう。
皆さんご存知のように、ティザー映像の中では『シンクロニシティ』が使われています。
方向性は違うけど、グループとしては一つ、それでバックに『シンクロニシティ』が使われているんだろうと思っていました。
自分にとって『シンクロニシティ』は協調性を高らかに歌った曲だと思っていたからです。
でも、歌詞を改めてみたら、そういうことではなさそうなことに気づきました。
おそらくこの曲のタイトルとなっている「シンクロニシティ」は、心理学者のユングが提唱した「シンクロニシティ」(共時性や同時性とも呼ばれます)のことのようです。
全体的に歌詞を見ると、「偶然」そこに居合わせた人、それでもそこには意味がある、というような件が出てきます。たとえば、歌詞の一部を引用しますと、
お互いに お互いに思いやれば
いつしか心は一つになる
横断歩道で隣り合わせた
他人同士でも
偶然…
もうめちゃめちゃユング先生のシンクロニシティです。
シンクロニシティなんじゃらほいの解説は、多分、ネットにいっぱいあるので探して調べてみてください。自分が書くよりはるかに正確で読みやすい解説があちこちにあると思います。
簡単にいうと「意味のある偶然」ということです。偶然の一致なのかもしれないけど、もしかして意味があるんじゃないか(たとえば、そろそろもう転職かなあと思っていた矢先に、偶然、転職して羽振りがよくなった友人から電話がかかってきた)と思わせる経験は誰しもあると思います。
ユング先生は、有名な心理学者フロイト先生の弟子筋に当たる人です。
何でも性に結び付けてエッチな方向に向かいがちなフロイト先生とは袂を分かち、先ほどの「意味のある偶然」のように一般的には科学の範疇に入らない事象も科学の中に取り込もうとした人です。
シンクロニシティの意味をそう捉えるとすると、このティザーに『シンクロニシティ』が使われた意味は、協調性というよりも、「こうやって(6期生メンバーが)集まったのも偶然ではなく、何かに導かれた必然だったんだよ」ということなんだと思います。
6期生が春組5人、夏組6人、都合11人ということがわかりました。
それから春組の5人の外見もわかりました。
まず人数ですが、絞りに絞った、ということなんでしょう。
5期生の倍率が約8,000倍という、とんでもない数字になっているので、6期生になって極端に下がってしまったら「おやおや」ということになってしまいますね。まだ、倍率などの情報はおおやけになっていませんが、この人数だと相当な倍率だったと予想できます。
自分の記憶では春組と夏組に分けて募集したのは、だいぶメンバーの数が減ってしまったから大きく増員するため、という主張もあったように思います。
この主張については、自分は否定的な見方をしていました。実際の記事はこちら。
簡単な話です。
5期生募集時に、すでに1期生、2期生がどんどん卒業し、人数ががくっと減るのがわかっているのに、5期生の合格者は11人でした。グループ名にもなっている46人前後のメンバーを確保するには少なすぎる数です。
これはもう運営側に数合わせする気がない、ということなのだと思います。
いまは3期生が少しずつ卒業していく流れになっていますが、もう少しすると4期生も卒業が囁かれるシーズンに突入します。データで見ると、だいたい加入してから7年目、8年目あたりから卒業するメンバーが増えていきます。
つまり、3期生に続いて4期生も少しずつ減っていくことになります。
現在、3期生から5期生まで31人在籍していますが、与田祐希さんがもうすぐ卒業して30人になります。
これに6期生の11人を足して41人、ここから7期生が入るまで減り続けることになります。
7期生の加入はおそらく2年後から3年後くらいになると思いますが、それを待つ間にメンバー数が20人台に突入する可能性も十分に考えられます。
運営サイドが意図的に減らしているかどうかはわかりませんが、少なくとも「減ってもいいもーん」と思っていることは間違いないでしょう。
そうなると、選抜の人数も減ることになり、減り具合いによっては全員選抜、なんて声も出てくるかもしれません。
CDを買ってもらうための呼び水として握手会、ミーグリを開催していますが、そこを収入源としてアテにするのはやめた、ということなのかもしれません。
2月6日から、春組が一人ひとり紹介されました。
年甲斐もなくはしゃいでしまい、情報収集以外の目的で使うことのないXで珍しく呟きまくりました。
よくもまあ、これだけの人を集めたな、と感心することしきりです。
ここで一人ずつ感想を書いてもただ単に賞賛の言葉を連ねるだけになり、無駄に字数を稼ぐだけになるので、気づいた点をまとめたいと思います。
紹介動画の特徴を書こうと思います。
おそらくカメラを写すシーンのあとに彼女たちの過去の写真が映るシーケンスは皆さんお気づきだと思います。それ以外で個人的に気になった点をピックアップしてみます。
まず、紹介動画のスタートが遠景から始まることです。
だだっ広い景色の中にメンバーがぽつんと映ります。
自分はこういう遠景シーンをスカイクロラ効果と呼んでいます。
押井守さんが監督した『スカイクロラ』というアニメ映画のタイトルを引用しています。
押井守さんと言えば、独り言のような映画を撮ることで有名な人です。
この『スカイクロラ』という映画では、登場人物がだだっ広い場所、たとえば飛行場みたいなところにぽつんと映るシーンが多用されています。
こういう見せ方って、切ない感じ、独特な澄んだ空気感とかを強く創出する効果があるように思います。そこに川井憲次さんの切ない系の音楽がかぶさってくると、もう泣けと言わんばかりの情緒たっぷりの世界になります。
次にメンバーの服が白基調になっている点です。これも先のスカイクロラ効果と同様、はかなさ、透明感といった雰囲気を強く押し出したい、ということなんでしょう。
ついでなので、5期生の2022年加入時のティザー動画も観たのですが、メロウで柔らかい雰囲気の演出に見えました。それに比べて、6期生の方は先ほどのスカイクロラ効果もあってか、(うまく言葉で表現できないのですが)全体的に切なさとか儚さとか透明感とか、そっち系の感じを強く出しているように思います。
さて、そこで6期生春組の一人目として登場した矢田萌歌さんに話を移します。
17歳にしては年不相応な雰囲気のある人で、女優さんっぽい感じがします。
立ち姿がしゅっとしていてモデルさんっぽい感じもします。
彼女をトップバッターに持ってきたのは、5期生との比較モードをリセットしたかったのではないかと個人的に思っています。
ネットニュースに彼女の写真が掲載されましたが、各誌ともに同じ画像を使っています。おそらく運営側から「この写真、つかってちょうだい」と各誌に支給されたものなんでしょう。

彼女の髪が風になびいている写真が使われています。こういう風に髪がなびいている姿は彼女だけで、とにかく雰囲気をてんこ盛りにしてやれ、という制作者側の意図を感じます。見た目、女優さんかモデルさんのCMみたいな感じになりますから。
顔立ちもモデルっぽい感じがしますし、立ち姿からするにスタイルもよさそうな感じがします。
おそらく5期生の井上和さんとまったく違うタイプをぶつけたかったのではないかと想像します。
何でも2022年2月に公開された5期生の紹介動画のトップバッターは井上和さんだったそうで、あまりの美少女ぶりに大変な反響があったらしいですね。
自分は2022年春から乃木坂のファンをやっていますが、そのタイミングではまだ乃木坂に興味がなかったので、あとになってネットとかの情報で知った話です。
自分もその動画を観たのですが、すでに井上和さんの美貌を知っていたからでしょうか、なかなか顔を映さない思わせぶりな演出に胃もたれし、「はいはい、この子をエースにしたいのね」とわりと冷めたリアクションでした。
まあ、まっさらな状態で見れば、「すげえな、この子」というリアクションをしたとは思います。ただ、くどい演出に辟易したと思いますが。
矢田さんの話に戻ります。
この髪がなびいている写真があちこちに露出するわけですから、彼女のパブリックイメージは「17才なのに大人っぽい」とか「ミステリアスな魅力があるね」とか「女優さんなの?」という感じになるでしょう。
これだけ雰囲気てんこ盛りにしておけば、5期生、特に5期生紹介のトップバッターを飾った井上和さんと比べようとしている人にとっては、おそらく肩透かしになるでしょう。
そこが狙いだったんじゃないかなあと思います。
がっかりした人、ちょっと見方を変えようとした人、いろいろだと思います。
自分はこの動画を観たときに、6期生を色眼鏡で見てほしくないという運営側からのメッセージかなと思ったのですが、もちろん運営側が意図を明かすわけはないので私の妄想かもしれません。
動画の中では、終始、笑顔をみせず、最後にちょこっと笑みを浮かべます。そこに彼女の声がかぶさるのですが、このときの笑みと声に年相応の可愛さが出ていると思います。
いやはやベタなモードチェンジですね。
これは「野郎ども、キュン死しろ」ということでしょう。
ここでキュン死するかどうかが彼女を支持するかどうかの境目になるのかもしれません。
ちなみに自分はキュン死した側の人間です。
コッテコテの演出なわけですが、それをやってサマになるって、素材が相当よいってことじゃないでしょうか。5期生でもここまでの雰囲気は出せないんじゃないかと思います。
しかも17歳という若さです。末恐ろしいと思います。
というわけで、6期生春組のティザー云々の話はおしまいにします。
明日から夏組です。
また、年甲斐もなくXで騒ぐと思います。いまから楽しみでしょうがないです。
仕事の都合で、前に書いた記事が中途半端に終わっていたので、その続きを書きたいと思います。
前の記事はこちら。
今回の記事は、37枚目シングルの選抜に対して思ったことをもう少し書き足そうと思います。どう見ても5期生に主軸が移っちゃってますよねという話を、最近の動きも絡めてもう少し書き足したいと思います。
それから、他の坂道グループでも乃木坂46と似たようなアンダーがらみの動きがあったので、これを機会にアンダーについて書きたいと思います。
アンダーのことを取り上げるたびに、文句ばっかり書いていますが、本当のところは今のアンダーの扱いに不満があると言えばあるものの、これでいいんじゃないかと肯定的に見ている部分もあります。今回は正直ベースで思いのたけを書いてみようと思います。
前の記事で37枚目シングルのフォーメーションを見て「なんじゃ、これは」と書いています。
端的に言うと「4期生の扱い、低くない?」という意味です。
3期生は表に立って先頭を走る立場から、後輩たちを後ろから見守る立場に変わり、少しずつ減っていくフェーズに入りました。
そうなると、実質的に最上級生となる4期生が主軸となるはずなのですが、36枚目シングルと37枚目シングルの表題曲のフォーメーションを見る限り、今の乃木坂の主軸は5期生でーす、と言わんばかりのフォーメーションになっているように思います。
37枚目シングル表題曲では前から2列目まで(福神)のポジション11人のうち、5期生が6人と半数以上を占めています。
37枚目シングル表題曲のフォーメーション発表のあと、気になってX(旧Twitter)のTLを追っかけたのですが、自分が見た範囲ではそう見る向きはきわめて少数派だったようです。
どちらかというと、冨里奈央さんと菅原咲月さんがアンダーに移ったことへの不満、林瑠奈さんが久しぶりに選抜入りしておめでとう、奥田いろはさんが初選抜でおめでとう、という内容の投稿が多かったように記憶しています。
まあ、自分のような見方をする人が非常に少ないので、もしかすると偏った見方なのかもしれません。
まあ、ここは「どうせ偏っているのさ」と開き直り、話を続けます。
主軸と言ったときに何をもって主軸と言うかですが、とりあえず、選抜メンバーの中でその占める割合が一番多い期を主軸として見る、ということにします。
何をもって主軸と見るか、いろいろな見方があると思います。
キャプテンやエースといった役目を負っている人もいるわけで、そういう人たちを主軸から外して考えていいのかという根本的な問題があります。
しかし、ここはそういうことには目をつむり、選抜に入っている人数が多い期を一番勢いがある期(=主軸)として見ることにします。
運営が5期生を完全に主軸にしたかどうかをまだ断じるには早いのですが、2枚連続して同じ傾向が見れることも考えると、今後も同じような動きが続く公算が高いように思います。
このような動きの是非はひとまず置いておいて、その背景には、4期生があと少し経てば卒業シーズンを迎えること、それから井上‐菅原体制の移行を急いでいるのかな、という感じがします。
4期生も一時代を築いていた時がありました。
29枚目シングルから32枚目シングルまでの期間、選抜メンバーの約半数を4期生が占めていました。その時期を4期生のピークだったと見れば、いま5期生がピークを迎えたという見方もできます。
実際のデータで見ると、28枚目シングルから最新シングルまでの期別のメンバーの割合は、下の表のとおりになっています。
32枚目から5期生も選抜メンバーに入るようになりましたが、そこを境に4期生のピークは終了しています。
36枚目からは5期生が選抜メンバーの約半数を占めるようになりました。今のところのデータを見る限り、4期生のピークが5期生に移った、といっていいでしょう。
この流れがしばらく続いたあと、6期生の本格的な選抜入りが始まるとともに、少しずつ5期生の勢いは衰退する、ということになると思います。
4期生も加入して7年目、夏には8年目を迎えます。平均して在籍年数が8年目あたりに卒業シーズンを迎えます。3期生に続き、4期生もそろそろ卒業が囁かれるシーズンを迎えます。
おそらく運営サイドが一番気にかけているのは、4期生メンバーの卒業後の進路をどうするか、ということではないかという気がします。
卒業を迎えて「今までありがとさん。じゃあね」というわけにもいかないでしょう。
大学→就職→結婚→出産・育児→復職みたいな典型的な安定路線を捨て、将来に何の保証もないアイドルという道を選んだわけですから、それ相応の花道を用意してあげるのが義理でしょうから。
だいぶ前から、乃木坂の将来を井上和さんと菅原咲月さんに引っ張ってもらおうとしている、と書いてきましたが、おそらく5年くらいのスパンでこの二人が引っ張る体制を考えているのだと思います。
きちんと自分の考えを持っているし、責任感、使命感も強いし、グループを引っ張っていくうえでお二人は適任でしょう。できるだけ長くこの二人に引っ張っていってもらいたい、と運営サイドは考えていると思います。
しかも、二人がプライベートでも大の仲良しになるという余録がついたことは、運営サイドにしても嬉しいオマケだったでしょう。
おそらく、加入2年目に井上さんをセンターに抜擢しエース格に格上げし、3年目に菅原さんを副キャプテンに抜擢することは、最初から描かれていた筋書きだったのではないかと思います。
以前、記事で書きましたが、5期生加入後の初めてのシングル(29枚目シングルの)に収録されている井上さんの紹介ビデオでは、彼女がエースになること、それから30枚目シングルに収録されている5期生楽曲『バンドエイド剥がすような別れ方』では菅原咲月さんがまとめ役になること、そして井上さんと菅原さんが今後の乃木坂を引っ張っていくことが暗示されていたと見ています。
3年目で副キャプテン就任というのは、時期的に見て早いでしょうし、年齢的にも19歳と若いわけですから異例の抜擢と言えます。
梅澤美波さんが、副キャプテンに就任したのが4年目、キャプテン昇格が5年目です。
2年目だったら早すぎると叩かれるけど、3年目だったらギリOKだろうから3年目にした、というところではないでしょうか。
つまり最短コースを取ったわけです。
それだけ急いでいる、という見方もできます。
運営サイドとしても短期間で体制がころころと変わるよりも、長めに期間を設定した方が運営しやすい、という事情もあるでしょうが、ある程度のスパンを切って、その中で何事かを達成させようとしている雰囲気もします。
前の記事でも書いていますが、5期生をターニングポイントにして何かを変えようとしている雰囲気はあります。そう思う根拠は、今までの人選からすると5期生が異色であることです。
その辺りの話は、内容的にあまりにもクソすぎて自分的には今や黒歴史となってしまった『6期生募集を受けて~今後の乃木坂46はこうなると妄想』という記事に書いています。
乃木坂の路線転換についていろいろ書いていますが、本人も「妄想」と言っているように、本当のところはまるで見当がついていません。
ただ、去年の後半辺りから主張してきた「宝塚システム」と考え合わせると、個性をもっと売り出していこうという路線はあるのかなとぼんやりと考えています。
個性派揃いの5期生も、そういうことを念頭に選ばれたのかもしれません。
「宝塚システム」なんじゃらほいの解説は下の記事に書いてあります。
「宝塚システム」という言い方の是非はともかく、その肝は、ともすればグループの中で埋もれてしまいがちな個性をクローズアップすることです。
期別活動という少人数の単位で、各自が思う存分に自身をプロデュースできるようにする活動を指します。
期別活動はこれまでもありましたが、もっと活動内容を厚くしようということです。
今後、5期生以降の世代の期別ライブは、各自がセンター曲を披露する、そして各自が自身をプロデュースしてパフォーマンスを披露する、という二本立てになるのではないかと思っています。
この活動が今後、活性化していくとしたら、もしかして曲を自作自演してくる子も出てくるかもしないし、クラシックか何かの名曲に合わせてオリジナルのダンスを踊る子も出てくるかもしれません。シュールな舞台装置に、舞台衣装なんて言う芸術路線に走っちゃう子も出てくるかもしれません。
簡単にまとめると、選抜やアンダーとかという立場に関係なく、個人の好きなようにやってよろしい、ということではないかと思っています。
もしかして大人の敷いたレールに乗るだけではなく、自身でレールを敷くのもいいんじゃないかと運営が考えていたら、とっても素敵だなと思います。
とまあ、いろいろ書いてきましたが、要約すると、5期生を主軸に個性をもっと前面に出した活動をしていくんでないかい、ということです。
去年の後半あたりから注目すべき動きがあります。
ちょっと前に櫻坂46の村井優さんが10枚目シングルで、そして最近では日向坂46の富田鈴花さんと髙橋未来虹さんが13枚目シングルで選抜に入らなかったことが強く印象に残っています。
どうやら聖域を設ける気はありません、ということらしいですね。
もっとも、聖域なんて勝手に自分がそう思っているだけで、そもそもそんなものは最初から存在しないのかもしれません。
今回の記事では、選抜に入らなかった人たちを総称して「アンダー」という呼び方で統一します。
これは乃木坂46で使われている言葉であり、他の坂道グループでは別の言い方をしていますが、総称する言葉がないようですし、この呼び方に慣れてしまっているので、この呼び方で統一することにします。
櫻坂46の村井優さんは、加入当初からダンス優等生として優遇されているように見えます。振付師のTAKAHIRO先生も、彼女のダンスを高く評価しています。
日向坂46についてはあまり詳しくないのですが、富田鈴花さんは外仕事で活躍しているし、歌唱力も坂道グループの中でもトップクラスで選抜常連メンバーのように見えましたし、高橋未来虹さんは副キャプテンですし、両人ともども選抜に入るものだと思っていたので意外でした。
ミーグリがすべてではないとは思うのですが、やっぱりミーグリの成績なんですかね。
確かに彼女たちのミーグリの成績は決して高くないようなのですが、だからといって低いわけでもないようです。
パフォーマンスがいかに優れていても、やはりミーグリの成績がよくないと選抜に入れない、ということらしいですね。
乃木坂46の菅原咲月さんにしても、日向坂46の髙橋未来虹さんにしても、副キャプテンでありながら現シングルでは選抜に入っていないのですが、裏を返せば、副キャプテンだからといって自動的に選抜に入るというものではない、ということになります。
本来、キャプテンや副キャプテンの役どころは、人をまとめる役なのだから、選抜かアンダーか、ミーグリの完売実績が高いかどうは関係ないはずです。
ただし、この考えには前提があります。
それは、アンダーは二軍でも補欠でもないというということです。
たとえば、スポーツの世界で、二軍や補欠からキャプテンを選出する、という例は聞いたことがありません。必ずしもスター選手がキャプテンにならなくてはならないわけではありませんが、ある程度、実力があり、そして人望のある人がキャプテンに選ばれると思います。
日向坂46の高橋未来虹さんは、「ひなあい」で歯茎丸出しでよく笑っているという印象が強く、それ以外の知識はないのですが、当然、実力も人望もある方なんでしょう。
乃木坂46の菅原咲月さんは、加入当初からまとめ役に適任とあちらこちらで囁かれていたとおり、キャプテンに相応しい人材でしょう。
副キャプテンがアンダーにいるということは、アンダーが二軍や補欠という扱いではないことを証明しているように思います。
とはいえ、両者の間には圧倒的な格差があります。その話はあとで詳しく書きます。
普通に考えて、人をまとめる立場の人が、選抜かアンダーかということで振り分けられるはずがない、そう思います。
とはいえ、キャプテン、副キャプテンが選抜ではなくてもいいか、という点については、おそらくNOでしょう。
キャプテンはグループの代表ですから、たとえば歌番組で表題曲を披露する際に、キャプテンがいないということは、メンバーから見ても、番組関係者から見ても、演者の代表者がいないことになってしまいます。
乃木坂の外の人間からすると、非常に奇異なできごとに映ります。グループとしても、精神的な支柱が抜けた状態になるわけですから、あまりよろしくないように思います。
じゃあ、アンダーにキャプテンがいなくていいのか、という点については、YESが回答のように思います。
というのも、選抜はグループの代表(顔)として選ばれた人たちであり、アンダーはそうでない人たちですから、やはり、ここにはしっかりとした線引きがあると思います。
では、副キャプテンは選抜でなくてよいのか、についてもNOだと思います。
副キャプテンはある意味、見習いキャプテンです。
キャプテンという役職をスムーズにバトンタッチできるようにキャプテン+副キャプテンという体制をとっているのですから、当然、副キャプテンはキャプテンの側にいてキャプテンをサポートすると同時に、そのときどきのキャプテンの立ち振る舞いを見ながら勉強する必要があるはずです。
ですから、キャプテンほどは強い強制力はないかもしれませんが、基本、選抜でなければならないはずです。
まとめると、キャプテンや副キャプテンを選ぶうえで、選抜かアンダーか、ミーグリの完売実績が高いかは関係ないが、選ばれた以上は選抜入りする、ということになる、ということになります。
もしそうだとすると、遠からず、高橋未来虹さんも菅原咲月さんも選抜に入るのではないかと予想しています。
乃木坂も、37枚目シングルで人気メンバー(ミーグリの完売実績で見ると上位メンバー)が選抜からアンダーに移りました。だからと言うわけでもないのですが、運営側としては、選抜に入らないことへのネガティブなイメージを持ってほしくないと、ファンに意識改革してもらいたいと考えているような気がします。まあ、そんな気がしているだけなのですが。
アンダーの位置づけが二軍でも補欠でもない、ということは、アンダーという呼び名はともかく、選抜の下にアンダーがあるわけではなく、あくまでも横並びの関係になるということになります。
しかし、それは建前上の話です。両者には圧倒的な格差があります。
圧倒的な格差は、媒体露出の頻度に顕著に現れます。
ここからは、媒体露出について書きますが、対象は主に乃木坂46です。
他の坂道グループのアンダーの媒体露出がどうなっているか把握できていないからです。
櫻坂46の遠藤理子さんが選抜経験なしでラヴィットに出演していますが、それって大抜擢なのか、それとも当たり前のことなのか把握できていません。
でも、選抜、アンダー関係なく媒体露出しているのであれば、すごくいいことだと思います。
では、話を続けます。
選抜、それもフロントともなれば、各誌のインタビュー記事に引っ張りだこになり、番組のゲストに呼ばれることも多くなります。
また、「乃木坂工事中」というような冠番組にも登場する回数が増えます。
アンダーはその逆です。
選抜に入り、媒体露出の回数が増えれば、それだけファンから推され人気が上がるという相乗効果が得られますが、アンダーの場合は媒体露出の頻度が極端に減るため、人気が下がり、人気が下がるから表舞台に出る頻度が下がるという負のスパイラルに巻き込まれます。
あちこちの記事で、アンダーという呼び方が気に入らないと書いていますが、こういう蟻地獄的な性質を持っている点では「アンダー」という呼び方はまさに正鵠を得ているかもしれません。
アンダーにはアンダーライブという機会が与えられているからそれでいい、という考えもあるかもしれません。
それはそれで一理あるのですが、だからといって格差が埋まるとは言い難いと思います。
もちろん、アンダーライブならではの熱気、感動といったことに価値は大いにあると思っています。
自分は実際にライブに行ったことがなく、配信しか見たことがありませんが、やはり曲に対する想いの深さはひしひしと感じるものがありました。
しかし、歌番組に出演しスポットライトを浴びる、といういかにもアイドルらしい活動からは遠ざかり、世間にアピールできる機会は大きく制限されます。
こういう格差がどうにも気に入らなくて、ついつい心情的にアンダーの扱いに対して不満たらたらになるのですが、そうは思いつつ、選抜とアンダーの間に格差があることの是非については、自分の中でも結論がついていません。
心情的にアンダーの子たちが不憫でならない、と思う人は多いでしょう。自分もそうです。もっとも「不憫」なんていう想いは、アンダーの子たちにしてみれば、憐れまれることになるわけですから、こちらの想いとは裏腹に迷惑な話でしょう。
アンダーにいる子たちは、選抜発表のあとにブログで「今回はアンダーとして頑張ります」と気丈に書いていますが、内心はそんなものではないはずです。
特に選抜からアンダーに移ることが決まった子は、崖から突き落とされるような気持ちになるのではないかと思います。自分を全否定されたような気分になるでしょう。
選抜からアンダーに移ることが決まったあとの櫻坂46の村井優さんのブログ、中嶋優月さんのブログを読んでいて胸を締め付けられる想いがしました。
薄い箱推しの自分ですらそう感じたのだから、推している人にしてみれば、たまったものではないでしょう。それこそ、運営の事務所に押しかけて抗議デモをしたくなるような話だと思います。
運営サイドはアンダーをどう見ているのでしょうか。
乃木坂46のアンダー楽曲に『アンダー』という曲があります。文字どおりアンダーを題材とした歌です。選抜に選ばれなかった心情を吐き出す、そういう歌です。
この曲のМVを見ると、運営サイドが選抜入りできなかった子たちがメンタルを相当やられている実態を把握していることが分かります。まあ、組織として当然把握すべきことですから、当たり前と言えば当たり前の話です。
クソ曲として有名な曲ですが、個人的には「言うほどクソ曲ではないな」という感想を持っています。
アンダーの気持ちを何層ものオブラートでくるんだ曲という印象です。
これで「私たち、アンダーだけど頑張る!」というような能天気なノリだったら、しょうもないクソ曲だと思いますが、何か恐る恐る「こんな私ですが...」みたいに低い姿勢で顔を出しているようないじらしさがあり、その辺でやや救われている(?)感じがします。
MVには、座り込んで泣いている子などが映し出されます。運営サイドもアンダーの子たちを精神的に追い込んでしまっている事情を認識していることがわかります。
ある意味、アイドル稼業のダークサイドとも言える部分を表にさらけ出してしまっていますが、これは、アイドルの厳しい現実を見せるとともに、こういうことが起きていることに自分たちはきちんと向き合っているのだというメッセージなのでしょう。
運営側の人たちも人の子です。年端のいかない女の子を精神的に追い込んでしまっていいと思うわけがありません。
そうは言っても、組織である以上、組織の幹になっていく人、組織の外側に押し出されていく人、次第次第に振り分けられていきます。これは避けようのない組織の宿命です。
アイドルは、ファンあってなんぼの世界です。
集客力がある子は、大きな収入源です。あまり収入源として期待できないのであれば、やはり力を入れてくれなくなるのは仕方がないことですね。
ただ、前にも書いたとおり、安定路線を捨ててまでアイドルという道を選んだ子に、もう少し手厚い救済策はないものかとも思います。
アンダーのことを考えると、大体この辺で煮詰まって思考停止に陥ります。
同じような人も多いのではないでしょうか。
ことあるごとに、アンダーの扱いが不満だ、と書いていますが、本音のところでは結構、玉虫色だったりするわけですwww。
もしかすると、さっき書いた「宝塚システム」が救済策として機能するのかもしれません。
もしそこまで考えて作られたシステムだとしたら、運営さんもなかなかやるな、と思います。
この辺のアンダーの位置づけについては、多分、運営の中でも相当な議論が重ねられたはずです。一社会人としての経験からすると、内容が内容だけに、かなり白熱した議論が繰り広げられたのではないかと思います。
体制的に最適解ではないかもしれないが、これで走るかと一応の結論を得て今に至っているはずです。
アイドルの世界は、「推しの力学」が原動力になっています。
アンダーにいる子を絶対に選抜に入れるんだとファンが決起し、ミーグリを買いまくれば、ミーグリがそれだけ早く完売します。
運営サイドもマーケティング活動を通してファンの行動を把握しているはずです。だから、ファンが目に見える形で後押しすれば、それを無碍にはしないでしょう。その子は晴れて選抜入りすると思います。
もし、選抜とアンダーの間に格差がないとすると、今度は「推しの力学」が働かなくなり、アイドル活動が膠着してしまう、なんてことになるかもしれません。
このような「推しの力学」がアイドルという存在を根底から支えているとすると、選抜とアンダーの壁をなくして万々歳という話ではなくなりますね。
今の段階では仮説なのですが、アイドル稼業をややこしくしているのは、この実体のあるようなないような「人気」や「推し」が原因なのではないかと思っています。
「人気」がすべてに先立ち、パフォーマンスは二の次という原理が働いているため、話をややこしくしているような気がします。
実力本位のスポーツであれば話は単純です。
実力が認められ、そして、その実力がチームの戦略上必要であると判断されれば、その人はレギュラー入りするでしょう。
たとえば、バスケットの世界では、概ね背が高いほど有利でしょう。しかし、バスケットの選手は巨人ばかりではありませんね。
漫画の『スラムダンク』に出てくる宮城クンみたいに上背はなくても、その俊敏さで大きな選手を翻弄し、その巧みなボールさばきで小柄ながらゲームをコントロールすることさえできます。
あるいは身体能力が高くなくても、海南高校の神クンみたいに、ゴールの遠くから正確にゴールを射貫くことができれば、相手はゴール近くだけ守備を固めればいい、なんてことはできなくなります。
何か一つ秀でているものがあれば、それは実際に目で見て確かめることができますし、それが実際に試合で役に立つことを証明することもできます。
ところが、アイドルの場合は「背の高い人」だけレギュラー入りさせるみたいに偏った条件で選んでいるように見えてしまいます。これが理由で、アイドルの世界が不公平に見えるのだと思います。
そして、それは前述したように「人気」や「推し」というわかりにくい力が作用しているため、ともすればアンフェアな世界に見えてしまうのではないかと思います。
しかし、だからと言って「人気商売だから仕方がない」で終わらせてしまっていいわけはありませんね。
最後に、自分が望んでいることを吐き出して終わりにしたいと思います。
自分が望んでいることは、「アンダー」という呼び方をやめてもらいたいのと、媒体露出の機会を増やしてもらいたい、以上の2つです。
まず、「アンダー」という言い方はいい加減、止めてもらいたいです。
この言葉は乃木坂46で使われている言葉なのですが、これに相当する言葉は櫻坂46では「BACKS」、日向坂46では「ひなた坂」です。
乃木坂46「アンダー」→櫻坂46「BACKS」→日向坂46「ひなた坂」という順番に並べると、徐々に表現が弱くなっていきます。この順番は、グループ誕生の順番でもあります。
乃木坂46は、秋元康さんの肝いりで、その当時隆盛を誇っていたAKB48のライバルグループとして誕生しました。つまり、強力な秋元イズムのもとで誕生しています。
AKB48では、メンバー間の競争が煽られたり、過酷な試練が与えられたりと一種の根性物に近い世界だったように記憶しています。
そんな流れを受けて「アンダー」という言い方になったのではないかと思います。
最初の頃は、選抜から漏れてしまった可哀想な人たちみたいな存在だったのが、やがてアンダーライブという場を与えられ、そこで成功を収め、アンダーだけのアルバムを作るまでになった、というサクセスストーリーをリアルタイムで体験してきた人たちには、あまりアンダーに対するネガティブなイメージはないのかもしれません。
自分みたいに比較的、最近に乃木坂46のファンになった人間には、そういう思い入れがないため、やはり選抜とアンダーの格差に、ついつい目が行ってしまいます。
櫻坂46の「BACKS」は、「選抜」と「アンダー」の中間みたいなやや複雑な位置づけになっていたこともありますが、今では完全に「アンダー」と同義です。つまり、選抜に入らない人たちを表します。
この言葉は「控え」くらいの意味なんでしょうか。乃木坂46の「アンダー」よりはソフトな表現になっていますね。
そして、日向坂46は「ひなた坂」という呼び方で、さすがに「ハッピーオーラ」を看板にしているだけあって、やんわりとした表現ですね。読み方が同じということは、差別はないよ、という意味なんでしょう。でも読み方が同じだと混乱しそうですね。
では、乃木坂46の「アンダー」を何と呼ぶのがいいのでしょうか。
個人的には差別的なニュアンスがなければ呼び方は何でもいいです。
グループのカラーが違うのでまねる必要はありませんが、日向坂46みたいに平仮名化して「のぎざか」でもいいですし、まったく別の名前、たとえば「がんばるシスターズ」でもいいです。
「アンダー」という呼び方にはもう一つ文句があります。
どうにも時代錯誤的な感じがすることです。
時代の方向は、強者の論理から、弱者を救済する論理に転換しています。「〇〇ハラスメント」、「〇〇ハラ」という言い方がさかんにされるようになりましたが、昔は気にも留められなかったことがクローズアップされ、弱者を作らない方向に社会の風潮がシフトしているように思います。
そういう意味では「アンダー」という言い方は時代に逆行すると思います。時代の雰囲気から外れるような言い方はやめた方がいいと思います。
もっとも、アンダーを弱者と捉えること自体がアンダーの人たちを蔑んでいるように見えるので、よくない見方かもしれません。
なんだかんだいって「アンダー」という言い方は、秋元康さんが築いたビジネスモデルの負の遺産のように見えるので、そういう古いビジネスモデルに乗っている意味が今となってはあまりないような気がします。
というわけで即刻、廃止してほしいです。
望んでいることがもう一つあります。
アンダーの子たちが媒体露出する機会をもう少し増やしてもらえたらいいなと思っています。
最近の坂道グループに共通の傾向として、配信媒体としてYouTubeを活用するケースが増えているように見えます。擬似的にYouTubeをテレビ番組として扱っているのかなと思っています。
媒体露出に差がありすぎるという反省があるのかわかりませんが、選抜、アンダーの区別なく、メンバーに均等に出演の機会が与えられているようなので、その辺は好意的に見ています。
あとはピンポイントの話になりますが、『乃木坂工事中』ですかね。選抜メンバーのみ出場する回が多く、アンダーの子たちが出演しない期間が続くことがあります。
アンダーの子の中には、選抜メンバーよりもはるかに高いバラエティー適性を持った子が何人もいます。そういう子をもっと番組に出してあげたほうが面白いと思います。
それと、自分の記憶が正しければ、ヒット祈願に一度だけアンダーメンバー(2期生の渡辺みり愛さん)が参加したことがあります。
いつも選抜メンバーだけヒット祈願に起用されるのですが、こういうこともやっちゃっていいんじゃないかと思います。
アンダーもグループの一員です。表題曲を応援しても何の問題もないでしょう。
そういう無用な壁は取っ払った方がいいんじゃないでしょうか。
とまあ、話がとっ散らかった感がありますが、言いたいことを言ってスッキリしたのでここらで終わりにします。
古い話になります。
去年の10月にリリースされた櫻坂46の10枚目シングルのお話です。
表題曲の『I want tomorrow to come』、BACKS楽曲の『僕は僕を好きになれない』、3期生楽曲『本質的なこと』のMVを見ていたく感銘を受けて、早速、記事にしようとしたのですが、仕事が超多忙になってしまい、年明けを迎え、ようやく記事にできました。
いや、何がすごいって、3本のMVが「生き方三パターン」とでもいうようなシリーズ物のMVに仕上がっているように見えることです。
表題曲は最終的に他者に自分を投げかけることに救いを求め、BACKS曲は救いのない世界に陥ってしまい、3期生楽曲は自身を肯定することに救いを見出す、という3パターンを描いているように見えます。
そして、その背景にはびんびんに哲学が入っているように見えます。
その辺について、妄想全開でお届けしたいと思います。
そういう哲学的要素が入っているかどうかはともかくとしても、MVのクオリティーがめちゃめちゃ高いと思います。ここ最近の坂道グループのMVの中でも出色の出来栄えではないかと思います。
おそらく、海外のマーケットも意識した「鼻息の荒い」MVなんでしょう。
それにしても、櫻坂46の勢いはすごいですね。いまや飛ぶ鳥を落とす勢いです。
いま、YouTubeの再生回数やオリコンチャートなどのデータを記録しているのですが、やっぱり櫻坂46は強い印象です。
データが溜まってきたら、いずれ分析して何らかの形で出すつもりです。
曲が三パートに別れていて、そのダイナミックな構成もあって、大きな話題を呼びましたね。
曲のパートを箇条書きにすると、こんな感じになると思います。
大雑把に言うと、こういう流れになっていると思うのですが、突き詰めると、これ以上のことは言っていないようにも見えます。
ですから、「結局、自分の不安を解消してくれるものは、最終的に他人なんだよ」というところで終わりにしても何の問題もないのですが、個人的には「闇」というワードが引っ掛かります。
深読みしすぎかもしれませんが、そこをどう捉えるかでMVの見え方が変わってくると思います。
このMVを見ると、「闇」を恐れ「光」を希求する、というストーリーが見えてきます。
MVの中で一生懸命、メンバーが「光」を集めていますね。
さて、話をがらっと変えます。
「光」と「闇」のような対立する概念で世界が成立しているという見方を二元論と言います。
こういう概念としては、「善」と「悪」、「天」と「地」、「戦争」と「平和」、「明」と「暗」、それから「月」と「すっぽん」(?)など、いろいろあります。
挙げだしたらキリがありません。
そりゃそうです。とにかく人間は世界を、対立する概念でくくるのが大好きな生き物ですから、もう世界中、対立する概念がうじゃうじゃしています。
では、なんで人間は二元論大好きっ子なんでしょうか。
おそらく、世界をそうやってくくった方が生きやすいからでしょう。裏を返せば、そういう風にくくらないと世界とどう向き合っていいのかわからない、ということにもなります。
二元論などの世界観でくくらない状態を「ヌミノーゼ」と言います。この言葉を知ったのはユング心理学の書物です。
もともとは、神学で使われている言葉で「聖なるもの」を表す言葉です。
しかし、ユング心理学の文脈では未分化の状態を表します。人間が「あれは善」、「あれは悪」とように色分けしていない状態を指します。
こういう、何のくくりもない世界は、人間にとって不安を呼び起こします。それが自分にとってどういう意味があるのかわからないからです。
なんだかわからない状態を忌み嫌う人間は、とにかく世界を定義したくてしょうがないわけです。
そういうときの便利な道具が二元論だったというわけです。
「言葉」も世界を定義するための道具という点では同じようなものだと思います。
人が闇を恐れるのは、そこに何があるのか(いるのか)わからないからです。
なんだかわからない世界を恐れる人間は、闇を打ち消すために光を出す装置を作り出しました。
そういう意味では、人間が作り出した文明は、恐怖から逃れようとしてできたもの、と言っても言い過ぎではないように思います。
もし、人間がそういう風にしか物事を認識できないのだとしたら、決してありのままの世界にたどり着くことができない、ということになります。
「じゃ、いっそのこと色眼鏡を外しちゃいなさい」と仰ったのが現象学のフッサール先生で、判断停止という概念です。それが何を意味するのか考えるのやめて、そのもの自体を見ようぜえ、と仰ったわけです。
そして、この考えを推し進めたのが、サルトル先生とかで有名な実存主義です。哲学に興味ない人でも、名前くらいは聞いたことがあるのではないかと思います。
ここで抑えておきたいポイントは、人間は何かと自分の都合のよいように物事を決めつけたがる、ということです。
すごーく身近な話に置き換えると、たとえば、自分のお友達を「あの人は陽キャだから」と決めつけるのと似たような話です。
当の本人は決めつける気はないものの、いつの間にか決めつけていることってありませんか?
「陽キャ」と決めつけた方が何かと自分にとって都合がよいからそうなったのかもしれません。しかし、実際にはその人はものすごく繊細な人で、そうやって明るくふるまうのも自分の柔らかい部分をさらけ出したくないからなのかもしれません。
そうして「陽キャ」=「何を言っても明るく対応してくれる」という勝手に作った図式で付き合っていくうちに、知らず知らずのうちにその人を深く傷付けているかもしれません。
このMVを初めて見たとき、出だしの「闇が怖くて眠れない僕」はきわめて個人的な話なのに、妙に世界の本質をついているなあ、と思いました。
第二部の狂騒的なパートも、そういう恐怖が源泉となって「ひっちゃかめっちゃか」になっているように見えます。
第二部では人間だけでなく、ピアノも踊り狂っていますね。ピアノは基本的にはエレガントな部分を担当することが多いのに、櫻坂46ではときどき「狂い出し」ます。
6枚目シングルの表題曲『Start over!』でも、本来であればエレガント担当のはずのピアノとストリングが狂い出します。こんな無茶苦茶なアレンジは滅多にお目(お耳)にかかれないと思います。かなり過激なことをやっていると思うのですが、その辺も海外受けする要因のように思います。
個人的に、こういう過激な路線、大好物です。
しかし、さんざん踊り狂ったところで出口が見つかるわけでもないし、だんだん疲れちゃいますね。
そして最終的には自分じゃどうにもならない、と思考停止し、他人の存在を希求するようになります。
これもまた妙に世界の本質をついているように思います。
さっきも書いたように、人間は二元論大好きっ子なわけです。しかし、本当のところは、二元論でなくてもいいのです。とにかく世界を「定義」できれば、道具はなんでもいいのです。
しかし、それは所詮、世界を生きやすくするための方便でしかなく、自分でそれが正しいなんてことは証明できません。
昔、岸田秀という心理学者の「唯幻論」(唯物論や唯心論をもじった言葉)という本を読んだことがありますが、結局、世界は自分が定義した幻でしかない、というような主旨だったと思います。
こうやって書いているとなんだか救いのない鬱っぽい話になってしまいますね。
では、こういう鬱っぽい話を決着させるにはどうすればいいか。
他人に頼ることです。
人が他人の存在を求めるのは寂しいから、ということになります。
では、その寂しさはどこから来るのでしょうか。
物事はそれ自体では規定することはできません。よく知られているパラドックスに「私は嘘つきである」というものがあります。
「私は嘘つきである」ということは、「私は嘘つき」であることも嘘になります。しかし、そうすると「私は嘘をつかない」ということになり、「私は嘘つきである」という話と矛盾します。
こうなると堂々巡りになり、何が正しいんだかわからなくなってしまいます。
結局のところ、このパラドックスが生まれる理由は「自分が自分自身を規定する」ことに無理があるからです。
難しく考えなくても直感的にわかる話ではないと思います。あるものをそれ自体で規定することがナンセンス、ということは難しい理屈を担ぎ出さなくても、なんとなくわかりますね。
つまり、自分で自分を規定するということが無理なのであれば、自分自身を規定するためには、かならず自分以外のものが必要になります。自己の正当性を自身で証明できないのであれば、それを自分以外の存在に示してもらう以外に方法はないわけです。
人が他人を希求する理由はそこにあるのではないか、という気がしています。
MVに話を戻します。
各メンバーが集めた電球は、無造作に積み上げられています。自分から見ると人間が作り出した文明のメタファーに見えます。

そして、最後に瞳月さん、砂を救うようなしぐさをします。そして、それは手から零れ落ちてしまいます。希望のはかなさを示しているように思います。
きわめて個人的な話を扱っているのに、こういう見方をすると別の切なさが襲ってきます。
実は大変ふかーいMVなのではないかと個人的には思っています。
言わずとしれた、櫻坂のダンスマシーン、村井優さんセンターのBACKS曲です。
村井優さんが選抜入りしなかったのは、ちょっとびっくりしましたが、MVを見て考えが変わりました。
勝手な想像ですが、10枚目シングルの構想は、表題曲センターを山下瞳月さん、BACKSセンターを村井優さんありきの企画で始まったんじゃないでしょうか。コンセプト上、対比関係にある両曲に櫻坂の3期生の)二大ダンスマシーンを振り分けたという気がします。
表題曲とBACKS曲はワンセットになっているように思います。
どちらのMVも、主人公が眠っている状態から始まります。
表題曲は救いを希求する話だったのに対して、BACKS曲は自分を見失い終わりのないループにとらわれてしまった話に見えます。
どちらも最終的な救済にはたどり着いていないわけですが、前者には希望が、後者には絶望がセットされます。
後で説明しますが、3期生楽曲『本質的なこと』は、この二曲のアンサーソング、自分を肯定し、繰り返すことを受け容れる話、つまり一応の解決をみた話になっているように思います。
さて、『僕は僕を好きになれない』です。
この曲のタイトルは、乃木坂46の『僕は僕を好きになる』を連想させます。
個人的にはつながりがあるようには見えませんし、仮にあったとしても、10枚目シングルの収録曲という文脈で語るうえであまり意味がないのではないかと思っています。
このМVのモチーフは「胡蝶の夢」みたいですね。
「胡蝶の夢」とは、眠っていたときに蝶になってひらひら飛んでいた夢を見たあと、目を覚ましたときに、夢から覚めて自分が蝶になっていた夢を見ていたのか、それともまだ自分は夢から覚めておらず、今の自分はその蝶が見ている夢なのか、どちらだかわからなくなったという話です。
自分たちは確かに現実の中にいるつもりだが、実は誰かの夢の中の存在に過ぎないのではないかという現実の不確かさを表す有名な話です。
興味がある人は、WikiPediaとかの解説を見てください。
誰しも、ふと現実感を喪失することがあると思います。「あれ、これって現実なんだっけ」と。
表題曲の説明で書いたとおり、私たち人間は世界を自分色に染めたがる生き物です。しかし、それは「なんだかよくわからない」状態から逃れようとして無理矢理そうしている、という風にも見ることができます。
つまり、私たちが見ている「現実」はそれ自体に何の正当性もなく、勝手に自分たちの都合のよいように塗りたくったものに過ぎず、たとえて言えば、薄氷の上に乗っているようなものだし、砂上の楼閣の上に腰かけているようなものなのでしょう。
胡蝶のエピソードの背景には、そういう気持ちの悪さ、居心地の悪さがあるのではないかと思います。
MVの冒頭で優ちゃん、蝶の体液を飲みます。そして胡蝶ワールドに入っていきます。
さんざん、撮影場所のホテルの中で暴れまくったあと、現実(?)に戻ってきますが、優ちゃん、眠ったままです。
もしかすると、優ちゃんは最初からずっと眠っていて、蝶の体液を飲むシーンも優ちゃんの夢の世界の話なのかもしれません。
だとすると、あのホテルの中のシーンは、体液を飲んで眠っている優ちゃんが見ている夢、という見方もできると思います。
まさに「夢の迷宮」とでもいうような世界ですね。
多層的な夢の世界の中で何が現実なのか、どこまでが夢なのかが迷子になってしまっています。
前述した「私は嘘つきである」の話と通ずる話、そういう見方もできるかもしれません。
このMVは、とにかく見ている人を気持ち悪くしてやれ、という悪意丸出しの映像です。
人の動きも化け物みたいで気持ち悪いですし、けばけばしい色合いも気持ち悪いですし、カメラワークもまるで船酔いしているみたいで気持ち悪いです。
そして、メンバーがぐるぐる同じところを回っています。おそらく自分という牢獄に囚われ、同じところをぐるぐる回っているんでしょう。
最後のシーンもメンバーが輪っか状に並び、出口のない閉じた円環を表しているように見えます。

自問自答するばかりで出口が見つからない。まるで煉獄の中に入って、苦しみ悶えている、そんな世界観を演出しているように見えます。
表題曲では他者という希望にすがろうとしましたが、この曲ではまったく希望はありません。
5枚目シングルから始まった3期生楽曲シリーズ、これで6曲目を迎えました。
自分の仮説が正しいとすると、3期生全員にセンター曲が割り振られるはずです。そして、この動きは、乃木坂46の5期生、日向坂46の4期生でも起きています。
この動きが坂道グループで最初に始まったのは、乃木坂46の5期生です。
5期生11人のうち、すでに9人までセンター曲が割り当てられています。残り2人まできました。ここまで来たら全員行くよなあと思っていますが、どうなるんでしょうね。一応、一周したら期別楽曲はいったん終わると見ています。
もうすぐ乃木坂には6期生が入ってきます。おそらく6期生にも期別楽曲が毎シングルに割り当てられると思っているのですが、そうすると一時的に5期生楽曲と6期生楽曲がかぶることになり、秋元先生、大変なことになるかもしれません。
この動きの背景には、個人がもっとスポットライトを浴びるようにしたいという意図があるのではないかと考えています。
その辺は、別記事で取り上げています。
センターは3期生の遠藤理子さん、通称、エンリコちゃんです。
前の二曲が悲壮的な感じがするのに対して、この曲はメローで暖かい感じがします。エンリコちゃんの柔らかい声といい具合いにマッチしていると思います。
3期生さん、メイドの役ですね。
指に包帯を巻いています。何でしょう、現実の穢れみたいなのを表しているんでしょうか。
本曲でセンターを務めるエンリコちゃんの役どころは、メイドさんたちのリーダーみたいですね。
彼女、帽子(?)みたいなの被ってるんですが、これなんていうんですかね。この帽子みたいなものが、彼女が負っている責任(あるいは自分が自分に課している重り)のようなのですが、途中で脱ぎ捨てます。
冒頭から鬱々とした日常シーンが続きます。
エンリコちゃん、おそらく自画像を描いていたのでしょうか、気に入らなくて顔の部分を塗りつぶしています。自身を否定的に見ていることがわかります。

そして、こんなの私じゃない、とばかりにエンリコちゃん豪華バージョンに移行します。
下のスクリーンショットは、豪華バージョンのエンリコちゃんがメイドバージョンのエンリコちゃんを突き飛ばしているところです。

ここでひとしきり豪華バージョンで踊ったあと、やっぱりこれも違うな、とエンリコちゃん、はたと我に返ります。
また、メイドモードに戻るのですが、頭の被り物を脱ぎ捨てたあと、あの窮屈そうなメイド服で踊り始めます。
今の自分を否定してもしょうがない、そう決意したように見えます。
ラストでまた冒頭と同じシーンになります。冒頭のシーンではエンリコちゃんは後ろ向きのままですが、ラストシーンではカメラの方を向きます。そのときの表情が少し笑みを浮かべていて、吹っ切れたような、少し挑戦的な、そんな表情を浮かべています。
このМVを初めて見たとき、もしかするとニーチェという哲学者が提唱した永劫回帰なのかな、と思いました。
以前、ニーチェが書いた本とか、ニーチェ哲学の解説本とかを読んだのですが、自分の頭ではよく理解できず、なんとなくの理解なのですが、永劫回帰とは、自身を肯定して繰り返しの中に身を投じる、ということなのかな、と思っています(間違っていたらごめんなさい)。
ここでは繰り返すということにネガティブなイメージはありません。
おそらく自分自身、現実を肯定するということが鍵になっているのだと思います。
「受け容れる」ということは、まず出発点に立つことなのだと思います。
先の説明の中で、人間は二元論大好きっ子で世界を色分けしたがるから、世界そのものの姿(人間色に染まっていない世界)には決して到達できない、ということを書きました。
しかし、だからといって「どうせ、自分たちは真実にたどり着けない」というネガティブな考え方を説いているわけではないんです。
そういう風な傾向があると自覚することが重要なのだと思います。そこを出発点にして、自分は思い込んでないか、と自問することに意味があるのだと思います。
もっともそれ以前に、ここで言う真実とは何なのか、という高尚な話もあるのですが、それは置いておきます。
当たっているかどうかは別として、こんな風に「すごーい、哲学してるー」という見方もできるわけです。つまり、それだけMVにいろいろと考えさせる要素が詰まっているということなんでしょう。
以上、妄想全開で、櫻坂46の10枚目シングルの収録曲のあれこれをお届けしました。
さんざん乃木坂の副キャプテンは菅原咲月さん一択と言ってきた手前、彼女の副キャプテン就任に驚きこそありませんでしたが、いざ発表となると胸に迫るものがありました。なんでしょう、自分の娘の晴れ舞台を見ているのと似たような感覚です。
菅原咲月さんについては、過去何回か記事にしてきたのですが、そのときどきに思いついた内容を節操なく書き散らしていて、結局なにを言いたいのかよくわからない状態になってしまっているので、この機会に今まで書いてきた内容を総括したいと思います。
内容的には、彼女がめちゃめちゃ勘がいい人ということ、彼女が既定のアイドル路線の枠に収まらない人なのかもということ、それから、彼女と井上和さんには、かなり早い段階で、今後の乃木坂を引っ張っていくメンバーというレールが敷かれていたこと、この三つを中心に書いていこうと思います。
本ブログで取り上げた乃木坂メンバーのうち、一番、登場回数が多いのは菅原咲月さんです。つまり、それだけ彼女の人間性に惚れ込んでいるということです。
よく気が付くし、雰囲気が明るいし、ビジュアルもいいし、一緒になってふざけてくれそうだし、といいとこだらけですから。
同じ理由で櫻坂46の松田里奈さんも大好きです。
彼女のことを一言でまとめると、めちゃめちゃ勘のいい子です。
彼女の特徴として、てきぱきと物事をこなしたり、トーク番組でトークをうまく回したりとか、しっかり者エピソードには事欠かないと思います。
そういう彼女は、自分から見るとすごく勘がいい子だな、と思います。
自分の中で「勘がいい」というと、その場その場で自分が何をすべきかとっさに判断できてすぐに行動に移せることを指します。
たとえば、何か問題が起きたときに、自分で解決できること、自分で解決するべきではないことをとっさに棲み分け、しかるべき対応を即座に実行に移せる人です。
勘というと、仕事ができるとか、そっち方面の印象が強いかもしれませんが、仕事だけでなく人間関係にも大きく作用します。
たとえば、落ち込んでいるメンバーがいたときに、「いまはそってしておこう」と遠巻きに見たり、「ここはしばらく寄り添ってあげよう」と隣に座り肩を抱いてあげたりと、そのときどきの状況で、さっと自然に行動に移すことができる人、そういう印象があります。
「勘がいい」というのは、物事を深く考えなくても、「勘」を働かせて、その場その場の状況に応じた最適解を導き出すということです。
会社や政治の世界では「嗅覚の優れた人」という言われ方もします。
頭の回転が早いと言えば、まあそうなのですが、自分の見たところ、こういうタイプの人は必ずしも学業の成績がよいわけではないようです。多分に、生まれつきの素養なのではないかと思います。
知恵が働き、洞察力に優れ、戦略的に物事を動かすことができる、「本当に頭のいい人」とは別タイプです。
また、勘のいいタイプの人は、何でもできそうに見えて、抽象的な思考はあまり得意でない傾向があるようです。
彼女の勘のよさを示す題材として適切なのかどうか自信はないのですが、「乃木坂工事中」# 445「乃木坂46 期別忘年会③」で、その勘のよさが発揮されているように思います。
一連の忘年会の流れを見ると、彼女の発言がきっかけに物事が流れているように見えます。もちろん番組の編集上そう見えるだけかもしれませんが。
最初の飲み物の支給から、乾杯の音頭、ヘッドホンガンガンリレー、そして最後のカラオケに至るまで、彼女の一言がきっかけに物事が動いているように見えます。
ネタ的に小さい話なので適切な例なのかわかりませんが、言いたいことは、狙ってやったわけではなく、自然にそうなっているように見えるということです。これって深く物事を考えてやっているわけではなく、自然に流れを作る「勘のいい人」ならではの典型的なパターンなんです。
勘がいい人は組織にとって非常に大きな戦力なんです。
彼女が加入初期から運営から推されていたように見えたのは、そういうことも理由だったんじゃないかなと想像します。
自分が彼女をどう見ているかは今まで書いてきたとおりなのですが、ここからは今まで彼女について書いてきたことのエッセンスをまとめたいと思います。
さんざんだらだらと書いてきたことを凝縮して「読みやすく」お届けしたいと思います。
自分が菅原咲月さんに注目するようになったのは、29枚目シングル『Actually…』に収録されていた5期生のPVを見てからです。
他のメンバーがいかにもアイドルらしいPVの作りだったのに対して、彼女のPVだけ異色です。
ビデオの最初から最後までひたすらしゃべり倒し、バラエティーでもないのにバンジージャンプに挑戦したりと、アイドルらしくないこと、おびただしい。

制作側もその気になれば、アイドル然としたテイストのビデオにすることもできたはずです。
たとえば、彼女の容姿に合ったクール系の美少女という触れ込みでビデオを作れば、そして彼女もある程度、地の性格を抑えれば、まったく違った、アイドル然としたPVになったはずです。
そうすれば、彼女のいまのポジションも違ったものになっていたかもしれません。
しかし、あえてそういう道を選ばなかったのは、そういうアイドル的な枠組みの中に彼女を押し込みたくなかったのではないかと勝手に想像しています。
そして、それは運営が一方的に彼女に押し付けた路線ではなく、彼女自身が選んだ路線かもしれません。
早い段階から先輩への憧れとして、梅澤キャプテンのキャプテンシーや久保史緒里さんのトーク力を挙げており、遠藤さくらさんや賀喜遥香さんへの憧れを語っていた井上和さんや川﨑桜さんとは、最初から路線が違っていたように見えます。
個人的に、彼女は乃木坂の仕事の幅を広げてくれるのでは、という期待を持っています。
たとえば、ラヴィットというバラエティー系の朝番組に一時期レギュラー出演していましたが、正直、爪痕を残せたかは微妙なところではないかと思います。
ただ、彼女の前向きな性格、臆せず誰にでも話しかけるコミュ力の高さ、何事にも全力投球な姿はスタッフ受けが良いのではないかと思います。
おそらく事前のスタッフの打ち合わせで積極的に提案したり、演者さんに絡み方について相談しにいったりしたのではないかと思います。実際に見たわけではないので、あくまでも自分の想像ですが、彼女の性格からして大いにありそうなことです。
仮に番組スタッフが「ちょっと、この番組は彼女にはきついかなあ」と思ったとしても、うちうちに別の番組のスタッフに「乃木坂にトーク力があって、リアクションのいい子がいるんだけど、そっちの番組で使ってみない」なんて具合に話が広がる、そんな可能性を彼女には感じます。
30枚目シングルに収録された2番目の5期生楽曲『バンドエイド剥がすような別れ方』は彼女のセンター曲であり、その人気の高さはあえて説明の余地はないでしょう。
MVがYouTubeに公開されています。
このMVの肝は以下のシーンです。

このシーンの前にメンバーが2人、3人セットになって映り、そして最後にこの三人が映ります。
このシーンの注目ポイントは二つ、このシーンだけメンバーが笑顔になっていること、それから井上和さんが不自然に首をねじって菅原さんと同じ方向を見ていることです。
菅原さんは5期生をまとめる子、そして井上和さんと二人でいずれ乃木坂を引っ張っていく両輪、そういうメッセージに見えます。詳しいことは下の方に掲載しているリンク先で説明しています。
自分が知る限り、乃木坂がこの二人を両輪と見ているという明確なメッセージを発したのは、これが最初です。
他の5期生楽曲にも同様のメッセージが仕込んであります。同じことを書くのが面倒くさいので、興味のある人は本ブログの別記事を探してみてください。
なんだかんだ言って、この二人が今のポジションに就いたのも、周囲の期待に応えてきたからでしょう。
彼女の副キャプテン就任は一様に歓迎ムードで迎えられましたが、その中でもとりわけ喜んでいるのは、想像するに井上和さんなのではないかと思っています。
勝手な思い込みかもしれませんが、彼女が菅原さんに向けている視線は、同期としての愛情を飛び越えて、もはや恋愛感情に近いように見えます。
井上和さんにとって菅原さんが名実ともに自分の相棒になったことは多分、そうとうに心強いできごとだったのではないかと思います。
以上、菅原咲月さんの記事の凝縮版をお届けしました。
参考までに、これまで書いてきた菅原咲月さん関連の記事のリンクを貼っておきます。